Garland F. Byers, Jr.の主教の印章。標語 Euntes in Mundum Universum が記されている

特別プロジェクト

主教*Garland F. Byers, Jr., J.D., D.D.‡

諸国民への主教、使徒的委任のもとに

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翻訳と権威についての覚え書き · 編集凡例


縦に長いルネサンスの絵画。上部では、冠をかぶったキリストが口から剣を出して白い馬に乗り、天の軍勢がそれに従い、太陽の中に立つ天使が鳥たちを呼んでいる。下部では、一人の天使が大きな石臼を投げ込み、都が燃え、王たちと商人たちが嘆きつつそれを見つめ、右下では獣が火の中に投げ込まれている。
マティアス・ゲルング(Matthias Gerung)《バビロンの滅亡と白い馬に乗る者》(ヨハネの黙示録18:9–24、19:11–21)、『オットハインリヒ聖書』の彩飾挿絵、1530~1532年頃。バイエルン州立図書館(ミュンヘン)(Cgm 8010, fol. 302v)。パブリックドメイン。
「實を結ばぬ暗き業に與する事なく、反つて之を責めよ。」エペソ人への書5:11(文語訳)

キリストが使徒たちに任務を授け、すべての国民に福音を宣べ伝えるために彼らを世に遣わされたまさにその瞬間から、1教会は闇の勢力との霊的な戦いに全面的に従事してきた。その戦いは霊の領域においても2、また地上の至る所において物理的にも行われている。3この戦いは時にさまざまな形をとってきた。たとえば、(1)敵が法を武器として用いること、4,5(2)私たちの主イエス・キリストが私たちに与えられた福音ではなく、新しい福音を宣べ伝えた偽預言者、6(3)あらゆる種類の偽りの教え、異端、冒瀆、7(4)死と殉教に至るまでの信者への迫害、8(5)娯楽として仕組まれ、大衆受けするよう周到に作られた、巧妙な手段と策略による罪の常態化、9(6)品位あるもの、聖なるものすべてを攻撃すると同時に、つまらない事柄で信者の気をそらすこと、10(7)偶像礼拝と支配者の崇拝、11(8)罪のない者の血を流すこと、12(9)見世物にされた流血、13(10)貧しい者への抑圧と貪欲、14(11)奴隷制と人身売買、15(12)オカルト、魔術、占い、16(13)暴政と法の上に立つ支配者、17(14)教会内の腐敗、18(15)分派とからだの分裂、19(16)圧力の下での背教、20そのほか、ここに挙げきれないほど多くの事柄であり、それらは教会に影響を及ぼし、福音の伝達を妨げてきた。21

主教の特別プロジェクトは、この働きを現代へと引き継ぐものである。各プロジェクトは、歴史のこの時点において教会22が特別な注意を払うべきであると主教が考える事柄を取り上げる。23このウェブサイト上で一つのプロジェクトの中に整理・収録されている文書のうち、あるものは十の国の中の一つの教会または複数の教会のみに宛てられている。24ほかの文書は、特別プロジェクトの案件に関わるさまざまな公職者、企業、機関、および/またはその他の人々に直接宛てられている。25教会外の第三者に宛てた文書も、諸教会そのものに宛てた文書も、特別プロジェクトの部に、あるいは関係する十の国に充てられた文書の一つまたは複数の部に見いだすことができる。

主教の慣行として、すべての文書は作成された日付に従って番号順に配列されている。26すべての文書には典拠が示され、その権威は省略なく引用されている。27

プロジェクト


注

1「……我は天にても地にても一切の權を與へられたり。 されば汝ら往きて、もろもろの國人を弟子となし、父と子と聖靈との名によりてバプテスマを施し、 わが汝らに命ぜし凡ての事を守るべきを教へよ。視よ、我は世の終まで常に汝らと偕に在るなり」マタイ伝福音書28:18–20(文語訳)。「……全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣傳へよ。」マルコ伝福音書16:15(文語訳)。「かく録されたり、キリストは苦難を受けて、三日めに死人の中より甦へり、 且その名によりて罪の赦を得さする悔改は、エルサレムより始りて、もろもろの國人に宣傳へらるべしと。」ルカ伝福音書24:46–47(文語訳)。「……平安なんぢらに在れ、父の我を遣し給へるごとく、我も亦なんぢらを遣す」ヨハネ伝福音書20:21(文語訳)。「然れど聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん、而してエルサレム、ユダヤ全國、サマリヤ、及び地の極にまで我が證人とならん」使徒行伝1:8(文語訳)。「御國のこの福音は、もろもろの國人に證をなさんため全世界に宣傅へられん、而してのち終は至るべし。」マタイ伝福音書24:14(文語訳)。「弟子たち出でて、あまねく福音を宣傳へ、主も亦ともに働き、伴ふところの徴をもて、御言を確うし給へり〕」マルコ伝福音書16:20(文語訳)。「遣されずば爭で宣傳ふることをせん『ああ美しきかな、善き事を告ぐる者の足よ』と録されたる如し。」ロマ人への書10:15(文語訳)。初代教会「使徒たちは、主イエス・キリストから[受けた]福音を私たちに宣べ伝えた。イエス・キリストは神から[受けてそうされた]。それゆえキリストは神から遣わされ、使徒たちはキリストから遣わされた。こうして、これら二つの任命はいずれも、神の御心に従って秩序正しく行われたのである。それゆえ彼らは命令を受け、私たちの主イエス・キリストの復活によって十分に確信を与えられ、神の言葉のうちに堅く立てられ、聖霊による満ちあふれる確信をもって、神の国が近づいたことを宣べ伝えつつ出て行った。」ローマのクレメンス『コリント人への第一の手紙』42章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。 ↩︎

2「惡魔の術に向ひて立ち得んために、神の武具をもて鎧ふべし。 我らは血肉と戰ふにあらず、政治・權威、この世の暗黒を掌どるもの、天の處にある惡の靈と戰ふなり。 この故に神の武具を執れ、汝ら惡しき日に遭ひて仇に立ちむかひ、凡ての事を成就して立ち得んためなり。」エペソ人への書6:11–13(文語訳)。「我らは肉にありて歩めども、肉に從ひて戰はず。 それ我らの戰爭の武器は肉に屬するにあらず、神の前には城砦を破るほどの能力あり、我等はもろもろの論説を破り、 神の示教に逆ひて建てたる凡ての櫓を毀ち、凡ての念を虜にしてキリストに服はしむ……」コリント人への後の書10:3–5(文語訳)。「萬の物は彼によりて造らる、天に在るもの、地に在るもの、見ゆるもの、見えぬもの、或は位、あるひは支配、あるひは政治、あるひは權威、みな彼によりて造られ、彼のために造られたればなり……」コロサイ人への書1:16(文語訳)。「視よ、我なんぢらを遣すは、羊を豺狼のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧く、鴿のごとく素直なれ。」マタイ伝福音書10:16(文語訳)。「信仰の善き戰闘をたたかへ……」テモテへの前の書6:12(文語訳)。「汝キリスト・イエスのよき兵卒として我とともに苦難を忍べ。 兵卒を務むる者は生活のために纏はるる事なし、これ募れる者を喜ばせんとすればなり。」テモテへの後の書2:3–4(文語訳)。「御使の長ミカエル惡魔と論じてモーセの屍體を爭ひし時に、敢へて罵りて審かず、唯『ねがはくは主なんぢを戒め給はんことを』と云へり。」ユダの書9(文語訳)。「我はキリストにある一人の人を知る。この人、十四年前に第三の天にまで取去られたり(肉體にてか、われ知らず、肉體を離れてか、われ知らず、神しり給ふ) われ斯くのごとき人を知る(肉體にてか、肉體の外にてか、われ知らず、神しり給ふ) かれパラダイスに取去られて、言ひ得ざる言、人の語るまじき言を聞けり。」コリント人への後の書12:2–4(文語訳)。(霊の世界と天上の領域には多くの次元があることを示す。)「我は我が蒙りたる默示の鴻大なるによりて高ぶることのなからん爲に……」コリント人への後の書12:7(文語訳)。「夫天と諸天の天および地とその中にある者は皆汝の神ヱホバに屬す」申命記10:14(文語訳)。「神果して地の上に住たまふや視よ天も諸の天の天も爾を容るに足ず况て我が建たる此家をや」列王紀略上8:27(文語訳)。「汝は唯なんぢのみヱホバにまします汝は天と諸天の天およびその萬象……」ネヘミヤ記9:6(文語訳)。「もろもろの天のてんよ 天のうへなる水よ ヱホバをほめたたへよ」詩篇148:4(文語訳)。「既に昇りしと云へば、まづ地の低き處まで降りしにあらずや。 降りし者は即ち萬の物に滿たん爲に、もろもろの天の上に昇りし者なり。」エペソ人への書4:9–10(文語訳)。「讃むべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神、かれはキリストに由りて靈のもろもろの祝福をもて天の處にて我らを祝し……」エペソ人への書1:3(文語訳)。「神はその大能をキリストのうちに働かせて、之を死人の中より甦へらせ、天の所にて己の右に坐せしめ、 もろもろの政治・權威・能力・支配、また啻に此の世のみならず、來らんとする世にも稱ふる凡ての名の上に置き……」エペソ人への書1:20–21(文語訳)。「我等には、もろもろの天を通り給ひし偉なる大祭司、神の子イエスあり。然れば我らが言ひあらはす信仰を堅く保つべし。」ヘブル人への書4:14(文語訳)。初代教会「それゆえ、しばしば集まって神に感謝し、その賛美を言い表すよう心がけよ。あなたがたがしばしば同じ場所に集まるとき、サタンの諸力は打ち砕かれるからである……」アンティオキアのイグナティオス『エフェソ人への手紙』13章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。 ↩︎

3「ヱホバ、サタンに言たまひけるは汝何處より來りしや サタン、ヱホバに應へて言けるは地を行めぐり此彼經あるきて來れり」ヨブ記1:7(文語訳)。「サタンやがてヱホバの前よりいでゆきヨブを撃てその足の跖より頂までに惡き腫物を生ぜしむ」ヨブ記2:7(文語訳)。「茲にサタン起りてイスラエルに敵しダビデを感動してイスラエルを核數しめんとせり」歴代志略上21:1(文語訳)。「彼祭司の長ヨシユアがヱホバの使の前に立ちサタンのその右に立てこれに敵しをるを我に見す」ゼカリヤ書3:1(文語訳)。「神の人の從屬夙に興て出て見に軍勢馬と車をもて邑を取かこみ居ればその少者エリシヤに言けるは嗚呼わが主よ我儕如何にすべきや エリシヤ答へけるは懼るなかれ我儕とともにある者は彼等とともにある者よりも多しと ヱリシヤ祈りて願くはヱホバかれの目を開きて見させたまへと言ければヱホバその少者の眼を開きたまへり彼すなはち見るに火の馬と火の車山に盈てエリシヤの四面に在り」列王紀略下6:15–17(文語訳)。「是においてネブカデネザル怒氣を充しシヤデラク、メシヤクおよびアベデネゴにむかひてその面の容を變へ即ち爐を常に熱くするよりも七倍熱くせよと命じ またその軍勢の中の力強き人々を喚てシヤデラク、メシヤクおよびアベデネゴを縛りてこれを火の燃る爐の中に投こめと命じたり 是をもて此人々はその褲子羽織外套およびその他の服装を着たるままにて縛られて火の燃る爐の中に投こまれたりしが 王の命はなはだ急にして爐は甚だしく熱しゐたれば彼のシヤデラク、メシヤクおよびアベデネゴを引抱へゆける者等はその火焔に燒ころされたり また此シヤデラク、メシヤク、デベデネゴの三人は縛られたるままにて燃る爐の中に落いりぬ 時にネブカデネザル王驚きて急忙しくたちあがり大臣等に言ふ我らは三人を縛りて火の中に投いれざりしや彼ら王にこたへて言ふ王よ然りと 王また應へて言ふ今我見るに四人の者縲絏解て火の中に歩みをり凡て何の害をも受ずまたその第四の者の容は神の子のごとしと」ダニエル書3:19–25(文語訳)。「是において王命を下しければダニエルを曳きたりて獅子の穴に投いれたり王ダニエルに語りて言ふ願くは汝が恒に事ふる神汝を救はんことをと 時に石を持きたりてその穴の口を塞ぎければ王おのれの印と大臣等の印をもてこれに封印をなせり是ダニエルの處置をして變ることなからしめんためなりき 斯て後王はその宮にかへりけるがその夜は食をなさずまた嬪等を召よせずして全く寝ることをせざりき 而して王は朝まだきに起いでてその獅子の穴に急ぎいたりしが 穴にいたりける時哀しげなる聲をあげてダニエルを呼りすなはち王ダニエルに言けるは活神の僕ダニエルよ汝が恒に事ふる神汝を救ふて獅子の害を免れしむることを得しや ダニエル王にいひけるは願くは王長壽かれ 吾神その使をおくりて獅子の口を閉させたまひたれば獅子は我を害せざりき其は我の辜なき事かれの前に明かなればなり王よ我は汝にも惡しき事をなさざりしなりと」ダニエル書6:16–22(文語訳)。「彼すなはち我に言けるはダニエルよ懼るる勿れ汝が心をこめて悟らんとし汝の神の前に身をなやませるその初の日よりして汝の言はすでに聽れたれば我汝の言によりて來れり 然るにペルシヤの國の君二十一日の間わが前に立塞がりけるが長たる君の一なるミカエル來りて我を助けたれば我勝留りてペルシヤの王等の傍にをる」ダニエル書10:12–13(文語訳)。「時にサタン、十二の一人なるイスカリオテと稱ふるユダに入る。」ルカ伝福音書22:3(文語訳)。「われら祈場に往く途中、卜筮の靈に憑れて卜筮をなし、其の主人らに多くの利を得さする婢女、われらに遇ふ。 彼はパウロ及び我らの後に從ひつつ叫びて言ふ『この人たちは至高き神の僕にて、汝らに救の道を教ふる者なり』 幾日も斯くするをパウロ憂ひて、振反りその靈に言ふ『イエス・キリストの名によりて、汝にこの女より出でん事を命ず』靈ただちに出でたり。 然るにこの女の主人ら利を得る望のなくなりたるをみて、パウロとシラスとを捕へ、市場に曳きて司たちに往き、 之を上役らに出して言ふ『この人々はユダヤ人にて、我らの町を甚く騷がし、 我らロマ人たる者の受くまじく行ふまじき習慣を傳ふるなり』 群衆も齊しく起り立ちたれば、上役ら命じて其の衣を褫ぎ、かつ笞にて打たしむ。」使徒行伝16:16–22(文語訳)。「愼みて目を覺しをれ、汝らの仇なる惡魔、ほゆる獅子のごとく歴迴りて呑むべきものを尋ぬ……」ペテロの前の書5:8(文語訳)。「かくて天に戰爭おこれり、ミカエル及びその使たち龍とたたかふ。龍もその使たちも之と戰ひしが、 勝つこと能はず、天には、はや其の居る所なかりき。 かの大なる龍、すなわち惡魔と呼ばれ、サタンと呼ばれたる全世界をまどはす古き蛇は落され、地に落され、その使たちも共に落されたり。 我また天に大なる聲ありて 『われらの神の救と能力と國と神のキリストの權威とは、今すでに來れり。我らの兄弟を訴へ夜晝われらの神の前に訴ふるもの落されたり。 而して兄弟たちは羔羊の血と己が證の言とによりて勝ち、死に至るまで己が生命を惜まざりき。 この故に天および天に住める者よ、よろこべ、地と海とは禍害なるかな、惡魔おのが時の暫時なるを知り、大なる憤恚をいだきて汝等のもとに下りたればなり』と云ふを聞けり。」ヨハネの黙示録12:7–12(文語訳)。「龍は女を怒りてその裔の殘れるもの、即ち神の誡命を守りイエスの證を有てる者に、戰鬪を挑まんとて出でゆき……」ヨハネの黙示録12:17(文語訳)。「また聖徒に戰鬪を挑みて、之に勝つことを許され、且もろもろの族・民・國語・國を掌どる權威を與へらる。」ヨハネの黙示録13:7(文語訳)。 ↩︎

4「律法をもて害ふことをはかる惡の位はなんぢに親むことを得んや 彼等はあひかたらひて義人のたましひをせめ罪なき血をつみに定む」詩篇94:20–21(文語訳)。「不義のおきてをさだめ暴虐のことばを録すものは禍ひなるかな かれらは乏きものの訴をうけず わが民のなかの貧しきものの權利をはぎ寡婦の資產をうばひ孤兒のものを掠む」イザヤ書10:1–2(文語訳)。「斯有しかばパロその凡の民に命じていふ男子の生るるあらば汝等これを悉く河に投いれよ女子は皆生しおくべし」出エジプト記1:22(文語訳)。「ハマンかくてアハシユエロス王に言けるは御國の各州にある諸民の中に散されて別れ別れになりをる一の民ありその律法は一切の民と異り また王の法律を守らずこの故にこれを容しおくは王の益にあらず 王もしこれを善としたまはば願くは彼らを滅ぼせと書くだしたまへ さらば我王の事をつかさどる者等の手に銀一萬タラントを秤り交して王の府庫に入しめん」エステル書3:8–9(文語訳)。「しかして驛卒をもて書を王の諸州におくり十二月すなはちアダルの月の十三日において一日の内に一切のユダヤ人を若き者老たる者小兒婦人の差別なくことごとく滅ぼし殺し絶しかつその所有物を奪ふべしと諭しぬ」エステル書3:13(文語訳)。「時に傳令者大聲に呼はりて言ふ諸民諸族諸音よ汝らは斯命ぜらる 汝ら喇叭簫琵琶琴瑟篳篥などの諸の樂器の音を聞く時は俯伏しネブカデネザル王の立たまへる金像を拝すべし 凡て俯伏て拝せざる者は即時に火の燃る爐の中に投こまるべしと」ダニエル書3:4–6(文語訳)。「是においてその監督と州牧等國事につきてダエルを訟ふる隙を得んとしたりしが何の隙をも何の咎をも見いだすことを得ざりき其は彼は忠義なる者にてその身に何の咎もなく何の過失もなかりければなり 是においてその人々言けるはこのダニエルはその神の例典について之が隙を獲にあらざればついにこれを訟るに由なしと すなはちその監督と州牧等王の許に集り來りて斯王に言りダリヨス王よ願くは長壽かれ 國の監督将軍州牧牧伯方伯等みな相議りて王に一の律法を立て一の禁令を定めたまはんことを求めんとす王よその事は是の如し即ち今より三十日の内は唯汝にのみ願事をなさしめ若汝をおきて神または人にこれをなす者あらば凡て獅子の穴に投いれんといふ是なり」ダニエル書6:4–7(文語訳)。「ユダヤ人こたふ『我らに律法あり、その律法によれば死に當るべき者なり、彼はおのれを神の子となせり』」ヨハネ伝福音書19:7(文語訳)。「然れど愈々ひろく民の中に言ひ弘らぬやうに、彼らを脅かして、今より後かの名によりて誰にも語る事なからしめん』 乃ち彼らを呼び、一切イエスの名によりて語り、また教へざらんことを命じたり。」使徒行伝4:17–18(文語訳)。「見出さざれば、ヤソンと數人の兄弟とを町司たちの前に曳ききたり、呼はりて言ふ『天下を顛覆したる彼の者ども此處にまで來れるを、 ヤソン迎へ入れたり。この曹輩は皆カイザルの詔勅にそむき、他にイエスと云ふ王ありと言ふ』」使徒行伝17:6–7(文語訳)。「かつて一度もなかったことであるが、敬虔な者たちの一族は今や迫害を受け、新しい勅令によってアジアで追い立てられている。恥知らずな密告者たちや他人の財産をむさぼる者たちが、その勅令を口実として、昼も夜も公然と強奪を行い、何の悪も犯していない人々から奪い取っているのである。」サルディスのメリトン、エウセビオス『教会史』4.26.5所引、Arthur Cushman McGiffert訳、Philip Schaff・Henry Wace編『Nicene and Post-Nicene Fathers』第2集第1巻(New York: Christian Literature Publishing, 1890年)所収(NPNF2 1の英語から翻訳)。「この判決の根拠は何か。なぜあなたがたはこの人を、姦淫する者としてでも、淫行する者としてでも、殺人者、盗人、強盗としてでもなく、何の罪にも問われていないのに、ただキリスト者の名で呼ばれることを告白したというだけで罰したのか。」殉教者ユスティノス『第二弁明』2章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。「それは、彼らを無実の者として調べ出すことを禁じながら、有罪の者として罰することを命じている。」テルトゥリアヌス『護教論』2章、S. Thelwall訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第3巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 3の英語から翻訳)。 ↩︎

5以下の引用は、罪のない生命を守るため、また財産の窃盗その他、他人を害し、あるいは市民の生活に不安定と不安をもたらす無法な行為から守るために、法が正しい目的に用いられる場合を示している。これは、法が民に対する武器として用いられ、市民を犠牲にして支配階級を肥え太らせ、市民を抑圧してその神から与えられた権利を奪い、この世の神を主人と呼ぶ少数の者の利益のために市民を完全な奴隷状態に至らせる場合と対比されるべきものである(「この世の神は此等の不信者の心を暗まして……」コリント人への後の書4:4(文語訳))。「長たる者は善き業の懼にあらず、惡しき業の懼なり、なんぢ權威を懼れざらんとするか、善をなせ、然らば彼より譽を得ん。 かれは汝を益せんための神の役者なり。然れど惡をなさば懼れよ、彼は徒らに劍をおびず、神の役者にして、惡をなす者に怒をもて報ゆるなり。」ロマ人への書13:3–4(文語訳)。「なんぢら主のために凡て人の立てたる制度に服へ。或は上に在る王、 或は惡をおこなふ者を罰し、善をおこなふ者を賞せんために王より遣されたる司に服へ。」ペテロの前の書2:13–14(文語訳)。「さればわれ第一に勸む、凡ての人のため、王たち及び凡て權を有つものの爲に、おのおの願・祈祷・とりなし・感謝せよ。 是われら敬虔と謹嚴とを盡して、安らかに靜に一生を過さん爲なり。」テモテへの前の書2:1–2(文語訳)。「汝の神ヱホバの汝に賜ふ一切の邑々に汝の支派に循がひて士師と官人を立べし彼らはまだ義き審判をもて民を審判べし 汝裁判を枉べからず人を偏視るべからずまた賄賂を取べからず賄賂は智者の目を暗まし義者の言を枉ればなり 汝ただ公義を而已求むべし然せば汝生存へて汝の神ヱホバの汝に賜ふ地を獲にいたらん」申命記16:18–20(文語訳)。初代教会「それゆえ、地上の支配は、諸国民の益のために神によって定められたのであって、悪魔によってではない。悪魔は決して休むことがなく、それどころか諸国民が穏やかに身を処することさえ見るのを好まない。[神がこれを定められたのは]人間の支配への恐れのもとで、人々が魚のように互いを食い合うことのないためであり、法を制定することによって、諸国民の間にはびこる甚だしい悪を抑えることができるためである。」リヨンのエイレナイオス『異端反駁』5.24.2、Alexander Roberts・William Rambaut訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。「勇気は、戦いにおいては祖国を蛮族から守り、家にあっては弱い者を、あるいは仲間を盗賊から守るものであって、正義に満ちている……」ミラノのアンブロシウス『聖職者の務めについて』1.27.129、H. de Romestin訳、Philip Schaff・Henry Wace編『Nicene and Post-Nicene Fathers』第2集第10巻(New York: Christian Literature Publishing, 1896年)所収(NPNF2 10の英語から翻訳)。 ↩︎

6「僞預言者に心せよ、羊の扮裝して來れども、内は奪ひ掠むる豺狼なり。」マタイ伝福音書7:15(文語訳)。「多くの僞預言者おこりて、多くの人を惑さん。」マタイ伝福音書24:11(文語訳)。「僞キリスト・僞預言者おこりて、大なる徴と不思議とを現し、爲し得べくば選民をも惑さんとするなり。」マタイ伝福音書24:24(文語訳)。「我は汝らが斯くも速かにキリストの恩惠をもて召し給ひし者より離れて、異なる福音に移りゆくを怪しむ。 此は福音と言ふべき者にあらず、ただ或人々が汝らを擾してキリストの福音を變へんとするなり。 されど我等にもせよ、天よりの御使にもせよ、我らの曾て宣傳へたる所に背きたる福音を汝らに宣傳ふる者あらば詛はるべし。」ガラテヤ人への書1:6–8(文語訳)。「もし人きたりて我らの未だ宣べざる他のイエスを宣ぶる時、また汝らが未だ受けざる他の靈を受け、未だ受け容れざる他の福音を受くるときは、汝ら能く之を忍ばん。」コリント人への後の書11:4(文語訳)。「かくの如きは僞使徒また詭計の勞動人にして、己をキリストの使徒に扮へる者どもなり。 これ珍しき事にあらず、サタンも己を光の御使に扮へば、 その役者らが義の役者のごとく扮ふは大事にはあらず、彼等の終局はその業に適ふべし。」コリント人への後の書11:13–15(文語訳)。「われ知る、わが出で去るのち、暴き豺狼なんぢらの中に入りきたりて、群を惜まず、 又なんぢらの中よりも、弟子たちを己が方に引き入れんとて、曲れることを語るもの起らん。」使徒行伝20:29–30(文語訳)。「されど民のうちに僞預言者おこりき、その如く汝らの中にも僞教師あらん。彼らは滅亡にいたる異端を持ち入れ、己らを買ひ給ひし主をさへ否みて、速かなる滅亡を自ら招くなり。」ペテロの後の書2:1(文語訳)。「愛する者よ、凡ての靈を信ずな、その靈の神より出づるか否かを試みよ。多くの僞預言者世に出でたればなり。」ヨハネの第一の書4:1(文語訳)。「人々健全なる教に堪へず、耳痒くして私慾のまにまに己がために教師を増し加へ、 耳を眞理より背けて昔話に移る時來らん。」テモテへの後の書4:3–4(文語訳)。「われ汝の行爲と勞と忍耐とを知る。また汝が惡しき者を忍び得ざることと、自ら使徒と稱へて使徒にあらぬ者どもを試みて、その虚僞なるを見あらはししこととを知る……」ヨハネの黙示録2:2(文語訳)。初代教会「しかし、霊において語る者がみな預言者であるわけではない。ただ主の道を保つ者だけがそうである。それゆえ、その道によって偽預言者と預言者とは見分けられる。」『ディダケー』11章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第7巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1886年)所収(ANF 7の英語から翻訳)。 ↩︎

7「されど御靈あきらかに、或人の後の日に及びて、惑す靈と惡鬼の教とに心を寄せて、信仰より離れんことを言ひ給ふ。 これ虚僞をいふ者の僞善に由りてなり。彼らは良心を燒金にて烙かれ……」テモテへの前の書4:1–2(文語訳)。「異端の者をば一度もしくは二度、訓戒して後これを棄てよ。 かかる者は汝の知るごとく、邪曲にして自ら罪を認めつつ尚これを犯すなり。」テトスへの書3:10–11(文語訳)。「兄弟よ、われ汝らに勸む、おほよそ汝らの學びし教に背きて分離を生じ、顛躓をおこす者に心して之に遠ざかれ。 かかる者は我らの主キリストに事へず、反つて己が腹に事へ、また甘き言と媚諂とをもて質朴なる人の心を欺くなり。」ロマ人への書16:17–18(文語訳)。「愛する者よ、われ我らが共に與る救につき勵みて汝らに書き贈らんとせしが、聖徒の一たび傳へられたる信仰のために戰はんことを勸むる書を、汝らに贈るを必要と思へり。」ユダの書3(文語訳)。「この故に汝らに告ぐ、人の凡ての罪と瀆とは赦されん、されど御靈を瀆すことは赦されじ。」マタイ伝福音書12:31(文語訳)。「獸また大言と涜言とを語る口を與へられ、四十二个月のあひだ働く權威を與へらる。 彼は口をひらきて神を涜し、又その御名とその幕屋すなはち天に住む者どもとを涜し……」ヨハネの黙示録13:5–6(文語訳)。「それゆえ私は――いや私ではなく、イエス・キリストの愛が――あなたがたに勧める。キリスト者の糧だけを用い、異なる種類の草、すなわち異端を避けよ。[これに身をゆだねる]者たちは、イエス・キリストを自分たちの毒に混ぜ合わせ、信用に値しないことを語る。それは甘いぶどう酒に致命的な毒を混ぜて与える者たちのようである。それを知らない者はむさぼるように飲み、死をもたらす快楽のうちに自らの死へと導かれるのである。」アンティオキアのイグナティオス『トラレス人への手紙』6章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。初代教会「まことに、誤謬はその醜い姿をむき出しのまま示されることは決してない。そのようにさらけ出されれば、たちまち見破られてしまうからである。」リヨンのエイレナイオス『異端反駁』第1巻序文2、Alexander Roberts・William Rambaut訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。 ↩︎

8「幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。 我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐りて各樣の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。 喜びよろこべ、天にて汝らの報は大なり。汝等より前にありし預言者たちをも、斯く責めたりき。」マタイ伝福音書5:10–12(文語訳)。「又なんぢら我が名のために凡ての人に憎まれん。されど終まで耐へ忍ぶものは救はるべし。」マタイ伝福音書10:22(文語訳)。「わが汝らに「僕はその主人より大ならず」と告げし言をおぼえよ。人もし我を責めしならば、汝等をも責め、わが言を守りしならば、汝らの言をも守らん。」ヨハネ伝福音書15:20(文語訳)。「人なんぢらを除名すべし、然のみならず、汝らを殺す者みな自ら神に事ふと思ふとき來らん。」ヨハネ伝福音書16:2(文語訳)。「かくて彼等がステパノを石にて撃てるとき、ステパノ呼びて言ふ『主イエスよ、我が靈を受けたまへ』 また跪づきて大聲に『主よ、この罪を彼らの負はせ給ふな』と呼はる。斯く言ひて眠に就けり。」使徒行伝7:59–60(文語訳)。「その頃ヘロデ王、教會のうちの或人どもを苦しめんとて手を下し、 劍をもてヨハネの兄弟ヤコブを殺せり。」使徒行伝12:1–2(文語訳)。「その他の者は嘲笑と鞭と、また縲絏と牢獄との試錬を受け、 或者は石にて撃たれ、試みられ、鐵鋸にて挽かれ、劍にて殺され、羊・山羊の皮を纏ひて經あるき、乏しくなり、惱され、苦しめられ……」ヘブル人への書11:36–37(文語訳)。「凡そキリスト・イエスに在りて敬虔をもて一生を過さんと欲する者は迫害を受くべし。」テモテへの後の書3:12(文語訳)。「なんぢ受けんとする苦難を懼るな、視よ、惡魔なんぢらを試みんとて、汝らの中の或者を獄に入れんとす。汝ら十日のあひだ患難を受けん、なんぢ死に至るまで忠實なれ、然らば我なんぢに生命の冠冕を與へん。」ヨハネの黙示録2:10(文語訳)。「第五の封印を解き給ひたれば、曾て神の言のため、又その立てし證のために殺されし者の靈魂の祭壇の下に在るを見たり……」ヨハネの黙示録6:9(文語訳)。「而して兄弟たちは羔羊の血と己が證の言とによりて勝ち、死に至るまで己が生命を惜まざりき。」ヨハネの黙示録12:11(文語訳)。「……キリスト者をライオンに!」テルトゥリアヌス『護教論』40章、S. Thelwall訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第3巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 3の英語から翻訳)。「あなたがたに刈り倒されるたびに、私たちは数を増す。キリスト者の血は種である。」テルトゥリアヌス『護教論』50章、S. Thelwall訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第3巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 3の英語から翻訳)。 ↩︎

9「ヱホバ神の造りたまひし野の生物の中に蛇最も狡猾し蛇婦に言ひけるは神眞に汝等園の諸の樹の果は食ふべからずと言たまひしや」創世記3:1(文語訳)。「されど我が恐るるは、蛇の惡巧によりてエバの惑されし如く、汝らの心害はれてキリストに對する眞心と貞操とを失はん事なり。」コリント人への後の書11:3(文語訳)。「これ珍しき事にあらず、サタンも己を光の御使に扮へば……」コリント人への後の書11:14(文語訳)。「是において人衆明朝早く起いでて燔祭を獻げ酬恩祭を供ふ民坐して飮食し起ちて戲る」出エジプト記32:6(文語訳)。「彼らの中の或者に效ひて偶像を拜する者となるな、即ち『民は坐して飮食し立ちて戯る』と録されたり。」コリント人への前の書10:7(文語訳)。民数記25:1–2(この箇所の文語訳の本文は入手できなかったため、ここには引用しない)。「されど我なんぢに責むべき一二の事あり、汝の中にバラムの教を保つ者どもあり、バラムはバラクに教へ、彼をしてイスラエルの子孫の前に躓物を置かしめ、偶像に献げし物を食はせ、かつ淫行をなさしめたり。」ヨハネの黙示録2:14(文語訳)。「然るにヘロデの誕生日に當り、ヘロデヤの娘その席上に舞をまひてヘロデを喜ばせたれば、 ヘロデ之に何にても求むるままに與へんと誓へり。 娘その母に唆かされて言ふ『バプテスマのヨハネの首を盆に載せてここに賜はれ』 王憂ひたれど、その誓と席に在る者とに對して、之を與ふることを命じ、 人を遣し獄にてヨハネの首を斬り……」マタイ伝福音書14:6–10(文語訳)。「……まったく悪魔のために設けられた……」テルトゥリアヌス『見世物について(De Spectaculis)』24章、S. Thelwall訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第3巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 3の英語から翻訳)。「当初、劇場は本来ウェヌスの神殿であった……」「これら二つの悪霊は、酩酊と情欲の守護者として、互いに誓いを交わした同盟を結んでいる。」テルトゥリアヌス『見世物について』10章、S. Thelwall訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第3巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 3の英語から翻訳)。「……不品行そのものの住みか……」であり、そこでは「ほかの所で不名誉とされるもののほかは何も重んじられない」。テルトゥリアヌス『見世物について』17章、S. Thelwall訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第3巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 3の英語から翻訳)。「芝居もまた私を引きずっていった。それは私の悲惨の描写と、私の火に注ぐ燃料とに満ちていた。なぜ人は、自分自身では決して受けたくない悲しく悲劇的な場面を見て、悲しまされることを好むのであろうか。」アウグスティヌス『告白』3.2.2、J. G. Pilkington訳、Philip Schaff編『Nicene and Post-Nicene Fathers』第1集第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1886年)所収(NPNF1 1の英語から翻訳)。「……ある人々は私たちを離れ、競馬の見世物のために私たちを見捨てた……」「……あなたは悪魔の捕虜としてあの見世物へと引きずられて行ったのか。」「……悪魔がこの群れを苦しめている……」ヨアンネス・クリュソストモス『競技場と劇場を駁す』(Contra ludos et theatra)、Mark Vermes訳(2012年)、パブリックドメインとして公開、The Tertullian Project、tertullian.org(Vermesの英語から翻訳)。エルヴィラ教会会議では「俳優は洗礼を受けることができるが、それはその生き方を捨てることを条件とすると定められ」、アルル教会会議(314年)では「theatriciとagitatores(競技における俳優と戦車の御者)は破門されると宣言された」。Herbert Thurston, “Theatre,” 『The Catholic Encyclopedia』第14巻(New York: Robert Appleton Company, 1912年)(英語から翻訳)。「映画の力は、生き生きとした具体的な映像によって語るという点にある。」「それらは罪の機会であり、情欲を美化することによって若者たちを悪の道へと誘惑する。」「……映画がもはや腐敗の学校とならないように。」ピウス11世『ヴィジランティ・クーラ(Vigilanti Cura)』、映画に関する回勅、1936年6月29日(Vatican City: Libreria Editrice Vaticana)、vatican.va(英語から翻訳)。 ↩︎

10キリストに目を注ぎ、次いで嵐に目を移したペテロ「ペテロ答へて言ふ『主よ、もし汝ならば我に命じ、水を蹈みて御許に到らしめ給へ』 『來れ』と言ひ給へば、ペテロ舟より下り、水の上を歩みてイエスの許に往く。 然るに風を見て懼れ、沈みかかりければ、叫びて言ふ『主よ、我を救ひたまへ』 イエス直ちに御手を伸べ、これを捉へて言ひ給ふ『ああ信仰うすき者よ、何ぞ疑ふか』」マタイ伝福音書14:28–31(文語訳)。「この故に我らは斯く多くの證人に雲のごとく圍まれたれば、凡ての重荷と纏へる罪とを除け、忍耐をもて我らの前に置かれたる馳場をはしり、 信仰の導師また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。彼はその前に置かれたる歡喜のために、恥をも厭はずして十字架をしのび、遂に神の御座の右に坐し給へり。」ヘブル人への書12:1–2(文語訳)。世俗と十字架についてのパウロ「そは我しばしば汝らに告げ、今また涙を流して告ぐる如く、キリストの十字架に敵して歩む者おほければなり。 彼らの終は滅亡なり。おのが腹を神となし、己が恥を光榮となし、ただ地の事のみを念ふ。」ピリピ人への書3:18–19(文語訳)。「兄弟よ、われは既に捉へたりと思はず、唯この一事を務む、即ち後のものを忘れ、前のものに向ひて勵み、 標準を指して進み、神のキリスト・イエスに由りて上に召したまふ召にかかはる褒美を得んとて之を追ひ求む。」ピリピ人への書3:13–14(文語訳)。「されど我には、我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。之によりて世は我に對して十字架につけられたり、我が世に對するも亦然り。」ガラテヤ人への書6:14(文語訳)。「イエス・キリスト及びその十字架に釘けられ給ひし事のほかは、汝らの中にありて何をも知るまじと心を定めたればなり。」コリント人への前の書2:2(文語訳)。「汝等もしキリストと共に甦へらせられしならば、上にあるものを求めよ、キリスト彼處に在りて神の右に坐し給ふなり。 汝ら上にあるものを念ひ、地に在るものを念ふな……」コロサイ人への書3:1–2(文語訳)。「又この世に效ふな、神の御意の善にして悦ぶべく、かつ全きことを辨へ知らんために、心を更へて新にせよ。」ロマ人への書12:2(文語訳)。「我らの顧みる所は見ゆるものにあらで見えぬものなればなり。見ゆるものは暫時にして、見えぬものは永遠に至るなり。」コリント人への後の書4:18(文語訳)。「デマスは此の世を愛し、我を棄てて……」テモテへの後の書4:10(文語訳)。「兵卒を務むる者は生活のために纏はるる事なし、これ募れる者を喜ばせんとすればなり。」テモテへの後の書2:4(文語訳)。「これサタンに欺かれざらん爲なり、我等はその詭謀を知らざるにあらず。」コリント人への後の書2:11(文語訳)。世を愛することについてのヨハネとヤコブ「なんぢら世をも世にある物をも愛すな。人もし世を愛せば、御父を愛する愛その衷になし。 おほよそ世にあるもの、即ち肉の慾、眼の慾、所有の誇などは、御父より出づるにあらず、世より出づるなり。 世と世の慾とは過ぎ往く、されど神の御意をおこなふ者は永遠に在るなり。」ヨハネの第一の書2:15–17(文語訳)。「姦淫をおこなふ者よ、世の友となるは、神に敵するなるを知らぬか、誰にても世の友とならんと欲する者は、己を神の敵とするなり。」ヤコブの書4:4(文語訳)。キリストの警告「……サタンよ、我が後に退け、汝はわが躓物なり、汝は神のことを思はず、反つて人のことを思ふ」マタイ伝福音書16:23(文語訳)。「なんぢら己がために財寶を地に積むな、ここは蟲と錆とが損ひ、盜人うがちて盜むなり。 なんぢら己がために財寶を天に積め、かしこは蟲と錆とが損はず、盜人うがちて盜まぬなり。 なんぢの財寶のある所には、なんぢの心もあるべし。」マタイ伝福音書6:19–21(文語訳)。「人は二人の主に兼ね事ふること能はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を輕しむべければなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず。」マタイ伝福音書6:24(文語訳)。「まづ神の國と神の義とを求めよ、さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。」マタイ伝福音書6:33(文語訳)。「茨の中に播かれしとは、御言をきけども、世の心勞と財貨の惑とに、御言を塞がれて實らぬものなり。」マタイ伝福音書13:22(文語訳)。「茨の中に落ちしは、聽きてのち過ぐるほどに、世の心勞と財貨と快樂とに塞がれて實らぬ所の人なり。」ルカ伝福音書8:14(文語訳)。「汝等みづから心せよ、恐らくは飮食にふけり、世の煩勞にまとはれて心鈍り、思ひがけぬ時、かの日羂のごとく來らん。」ルカ伝福音書21:34(文語訳)。「……マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思ひ煩ひて心勞す。 されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此は彼より奪ふべからざるものなり」ルカ伝福音書10:41–42(文語訳)。「曾て洪水の前ノア方舟に入る日までは、人々飮み食ひ、娶り嫁がせなどし、 洪水の來りて悉とく滅すまでは知らざりき、人の子の來るも然あるべし。」マタイ伝福音書24:38–39(文語訳)。「……手を鋤につけてのち後を顧みる者は、神の國に適ふ者にあらず」ルカ伝福音書9:62(文語訳)。「皆ひとしく辭りはじむ。初の者いふ「われ田地を買へり。往きて見ざるを得ず。請ふ、許されんことを」 他の者いふ「われ五耜の牛を買へり、之を驗すために往くなり。請ふ、許されんことを」 また他も者いふ「われ妻を娶れり、此の故に往くこと能はず」」ルカ伝福音書14:18–20(文語訳)。「ロトの妻を憶へ。」ルカ伝福音書17:32(文語訳)。「ロトの妻は後を囘顧たれば鹽の柱となりぬ」創世記19:26(文語訳)。「……なんぢら斯く一時も我と共に目を覺し居ること能はぬか。 誘惑に陷らぬやう、目を覺しかつ祈れ。實に心は熱すれども肉體よわきなり」マタイ伝福音書26:40–41(文語訳)。「されば他の人のごとく眠るべからず、目を覺して愼むべし。」テサロニケ人への前の書5:6(文語訳)。敵が襲ったときに気をそらされていた「人々の眠れる間に、仇きたりて麥のなかに毒麥を播きて去りぬ。」マタイ伝福音書13:25(文語訳)。「年歸りて王等の戰に出る時におよびてダビデ、ヨアブおよび自己の臣僕並にイスラエルの全軍を遣はせり彼等アンモンの子孫を滅ぼしてラバを圍めりされどダビデはエルサレムに止りぬ 爰に夕暮にダビデ其床より興きいでて王の家の屋蓋のうへに歩みしが屋蓋より一人の婦人の體をあらふを見たり其婦は觀るに甚だ美し」サムエル後書11:1–2(文語訳)。「婦おのが膝のうへにサムソンをねむらせ人をよびてその頭髮七繚をきりおとさしめ之を苦めはじめたるにその力すでにうせさりてあり」士師記16:19(文語訳)。「ベルシヤザル王その大臣一千人のために酒宴を設けその一千人の者の前に酒を飮たりしが 酒の進むにいたりてベルシヤザルはその父ネブカデネザルがヱルサレムの宮より取きたりし金銀の器を携へいたれと命ぜり是王とその大臣および王の妻妾等みな之をもて酒を飮んとてなりき 是をもてそのヱルサレムなる神の宮の内院より取たりし金の器を携へいたりければ王とその大臣および王の妻妾等これをもて飮めり すなはち彼らは酒をのみて金銀銅鐵木石などの神を讃たたへたりしが その時に人の手の指あらはれて燭臺と相對する王の宮の粉壁に物書り王その物書る手の末を見たり」ダニエル書5:1–5(文語訳)。「カルデヤ人の王ベルシヤザルはその夜の中に殺され」ダニエル書5:30(文語訳)。「此殿かく毀壞をれば汝等板をもてはれる家に居るべき時ならんや されば今萬軍のヱホバかく曰たまふ 汝等おのれの行爲を省察べし 汝らは多く播ども収入るところは少く食へども飽ことを得ず 飮ども滿足ことを得ず 衣れども暖きことを得ず 又工價を得るものは之を破れたる袋に入る」ハガイ書1:4–6(文語訳)。民数記11:4–6(この箇所の文語訳の本文は入手できなかったため、ここには引用しない)。「これ私に入りたる僞兄弟あるに因りてなり。彼らの忍び入りたるは、我らがキリスト・イエスに在りて有てる自由を窺ひ、且われらを奴隷とせん爲なり……」ガラテヤ人への書2:4(文語訳)。「そは敬虔ならずして我らの神の恩惠を好色に易へ、唯一の主なる我らの主イエス・キリストを否むものども潜り入りたればなり。彼らが此の審判を受くべきことは昔より預じめ録されたり。」ユダの書4(文語訳)。目を据え続けること「わが眼をほかにむけて虚しきことを見ざらしめ 我をなんぢの途にて活し給へ」詩篇119:37(文語訳)。「汝の目は正く視 汝の眼瞼は汝の前を眞直に視るべし」箴言4:25(文語訳)。初代教会「私は今では、犬が野兎を追うのを見るために競技場へ行くことはしない。しかし、たまたま野原でそのような狩りのそばを通りかかると、それはおそらく真剣な思索からさえ私の気をそらすであろう……家に座っているとき、とかげが蠅を捕らえたり、蜘蛛が網に飛び込んでくる蠅をからめ取ったりするのが、どうしてしばしば私の注意を引きつけるのか……そのとき、私たちの祈りはしばしばそれによって中断され、乱されるのである……」アウグスティヌス『告白』10.35.57、J. G. Pilkington訳、Philip Schaff編『Nicene and Post-Nicene Fathers』第1集第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1886年)所収(NPNF1 1の英語から翻訳)。 ↩︎

11「汝我面の前に我の外何物をも神とすべからず 汝自己のために何の偶像をも彫むべからず又上は天にある者下は地にある者ならびに地の下の水の中にある者の何の形状をも作るべからず 之を拜むべからずこれに事ふべからず我ヱホバ汝の神は嫉む神なれば我を惡む者にむかひては父の罪を子にむくいて三四代におよぼし……」出エジプト記20:3–5(文語訳)。「シヤデラク、メシヤクおよびアベデネゴ對へて王に言けるはネブカデネザルよこの事においては我ら汝に答ふるに及ばず もし善らんには王よ我らの事ふる我らの神我らを救ふの能あり彼その火の燃る爐の中と汝の手の中より我らを救ひいださん 仮令しからざるも王よ知たまへ我らは汝の神々に事へずまた汝の立たる金像を拝せじ」ダニエル書3:16–18(文語訳)。「ヘロデ定めたる日に及びて王の服を著け高座に坐して言を宣べたれば、 集民よばはりて『これ神の聲なり、人の聲にあらず』と言ふ。 ヘロデ神に榮光を歸せぬに因りて、主の使たちどころに彼を撃ちたれば、蟲に噛まれて息絶えたり。」使徒行伝12:21–23(文語訳)。「また龍おのが權威を獸に與へしによりて、彼ら龍を拜し、且その獸を拜して言ふ『たれか此の獸に等しき者あらん、誰か之と戰ふことを得ん』」ヨハネの黙示録13:4(文語訳)。「而してその獸の像に息を與へて物言はしめ、且その獸の像を拜せぬ者をことごとく殺さしむる事を許され……」ヨハネの黙示録13:15(文語訳)。「さらば我が愛する者よ、偶像を拜することを避けよ。」コリント人への前の書10:14(文語訳)。「若子よ、自ら守りて偶像に遠ざかれ。」ヨハネの第一の書5:21(文語訳)。「彼ら言ふ『カイザルのなり』ここに彼らに言ひ給ふ『さらばカイザルの物はカイザルに、神の物は神に納めよ』」マタイ伝福音書22:21(文語訳)。「『主なるカエサル』と言い、犠牲をささげることに、何の害があるのか……」『ポリュカルポスの殉教』8章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。「カエサルの運勢にかけて誓え。悔い改めて、『無神論者を除け』と言え。」……「八十六年のあいだ、私はこの方に仕えてきたが、この方は一度も私に害をなさらなかった……」『ポリュカルポスの殉教』9章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。ローマ総督の記録(キリスト教以外の古代資料)「キリスト者であること、あるいはかつてキリスト者であったことを否定した者たちは、私の口述した言葉で神々に呼びかけ、この目的のために神々の像とともに運ばせておいたあなたの像に香とぶどう酒とをもって祈りをささげ、さらにキリストを呪った――真にキリスト者である者は、これらのことのどれ一つとして強いられてもすることができないと言われている……」小プリニウス『書簡集』10.96、皇帝トラヤヌス宛て(紀元112年頃)、James J. O’Donnellが公開した英訳、Georgetown University, faculty.georgetown.edu/jod/texts/pliny.html(同ページに訳者名の記載なし)(O’Donnellの英語から翻訳)。 ↩︎

12「凡そ人の血を流す者は人其血を流さん其は神の像のごとくに人を造りたまひたればなり」創世記9:6(文語訳)。「汝殺すなかれ」出エジプト記20:13(文語訳)。「ヱホバの憎みたまふもの六あり否その心に嫌ひたまふもの七あり 即ち驕る目いつはりをいふ舌 つみなき人の血を流す手……」箴言6:16–17(文語訳)。「かれらはその子女を鬼にささぐ 罪なき血すなはちカナンの偶像にささげたる己がむすこむすめの血をながしぬ 斯てくには血にてけがされたり」詩篇106:37–38(文語訳)。「こは彼ら我を棄てこの處を瀆し此にて自己とその先祖およびユダの王等の知ざる他の神に香を焚き且辜なきものの血をこの處に盈せばなり 又彼らはバアルの爲に崇邱を築き火をもて己の兒子を焚き燔祭となしてバアルにささげたり此わが命ぜしことにあらず我いひしことにあらず又我心に意はざりし事なり……」エレミヤ記19:4–5(文語訳)。「汝はわがはらわたをつくり 又わがははの胎にわれを組成たまひたり われなんぢに感謝す われは畏るべく奇しくつくられたり なんぢの事跡はことごとくくすし わが霊魂はいとつばらに之をしれり われ隠れたるところにてつくられ地の底所にて妙につづりあはされしとき わが骨なんぢにかくるることなかりき わが體いまだ全からざるに なんぢの目ははやくより之をみ 日々かたちづくられしわが百體の一だにあらざりし時に ことごとくなんぢの冊にしるされたり」詩篇139:13–16(文語訳)。「われ汝を腹につくらざりし先に汝をしり汝が胎をいでざりし先に汝を聖め汝をたてて萬國の預言者となせりと」エレミヤ記1:5(文語訳)。「……あなたは堕胎によって子を殺してはならず、生まれたものを殺してはならない……」『ディダケー』2章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第7巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1886年)所収(ANF 7の英語から翻訳)。「彼らは[ほかの]すべての人と同じように結婚し、子をもうける。しかし自分の子を滅ぼすことはしない。」『ディオグネトスへの手紙』5章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。「また私たちは、堕胎を引き起こすために薬を用いる女たちは殺人を犯しているのであり、その堕胎について神に申し開きをしなければならないと言っているのに、どのような原理に基づいて私たちが殺人を犯すことがあろうか。」アテネのアテナゴラス『キリスト教徒のための嘆願』35章、B. P. Pratten訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第2巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 2の英語から翻訳)。 ↩︎

13「その心に喜びていひけるはサムソンを召てわれらのために戲技をなさしめよとて囚獄よりサムソンを召いだせしかばサムソン之がために戲技をなせり彼等サムソンを柱の間に立しめしに」士師記16:25(文語訳)。「我おもふ、神は使徒たる我らを死に定められし者のごとく、後の者として見せ給へり。實に我らは宇宙のもの、即ち御使にも、衆人にも、觀物にせられたるなり。」コリント人への前の書4:9(文語訳)。「なんぢら御光を受けしのち苦難の大なる戰鬪に耐へし前の日を思ひ出でよ。 或は誹謗と患難とに遭ひて觀物にせられ、或は斯かることに遭ふ人の友となれり。」ヘブル人への書10:32–33(文語訳)。「ヨーロッパの帝国を受け継いだホノリウスは、長くローマで行われてきた剣闘士の闘技をやめさせた。彼がそうした機縁は次のような出来事から生じた。テレマコスという名のある人が修道の生活を受け入れていた。彼は東方から出発し、そのためにローマへやって来た。そこで忌まわしい見世物が催されていたとき、彼は自ら競技場に入り、闘技場に下りて、互いに武器を振るっている者たちを止めようとした。殺戮を見物していた者たちは憤り、そのような血なまぐさい行いを喜ぶ悪霊の狂った怒りに駆られて、この和平をもたらそうとした人を石で打ち殺した。称賛すべき皇帝はこのことを知らされると、テレマコスを勝利した殉教者たちの列に加え、あの不敬虔な見世物に終止符を打った。」テオドレトス『教会史』5.26、Philip Schaff・Henry Wace編『Nicene and Post-Nicene Fathers』第2集第3巻(New York: Christian Literature Publishing, 1892年)所収(NPNF2 3の英語から翻訳)。「というのは、その血を見るやいなや、彼はそれとともに一種の残忍さを飲み込んだのである。彼は顔をそむけず、目を据え、知らず知らずのうちに狂気を飲み込み、罪深い闘いを喜び、血なまぐさい娯楽に酔いしれた。」アウグスティヌス『告白』6.8.13、J. G. Pilkington訳、Philip Schaff編『Nicene and Post-Nicene Fathers』第1集第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1886年)所収(NPNF1 1の英語から翻訳)。「しかし私たちは、人が殺されるのを見ることはその人を殺すこととほとんど同じであると考えて、そのような見世物を断ったのである。」アテネのアテナゴラス『キリスト教徒のための嘆願』35章、B. P. Pratten訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第2巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 2の英語から翻訳)。 ↩︎

14「ヱホバかく言たまふ イスラエルは三の罪あり 四の罪あれば我かならず之を罰して赦さじ 即ち彼らは義者を金のために賣り貧者を鞋一足のために賣る 彼らは弱き者の頭に地の塵のあらんことを喘ぎて求め柔かき者の道を曲げ又父子共に一人の女子に行て我聖名を汚す……」アモス書2:6–7(文語訳)。「汝らは貧き者を踐つけ麥の贐物を之より取る この故に汝らは鑿石の家を建しと雖どもその中に住ことあらじ 美しき葡萄園を作りしと雖どもその酒を飮ことあらじ 我知る汝らの愆は多く汝らの罪は大なり 汝らは義き者を虐げ賄賂を取り門において貧き者を推抂ぐ」アモス書5:11–12(文語訳)。「貧者を虐ぐる者はその造主を侮るなり 彼をうやまふ者は貧者をあはれむ」箴言14:31(文語訳)。「弱き者を弱きがために掠むることなかれ 艱難者を門にて壓つくること勿れ そはヱホバその訴を糺し且かれらを害ふものの生命をそこなはん」箴言22:22–23(文語訳)。「ヱホバ來りておのが民の長老ともろもろの君とをさばきて言給はん なんぢらは葡萄園をくひあらせり 貧きものより掠めとりたる物はなんぢらの家にあり いかなれば汝等わが民をふみにじり貧きものの面をすりくだくやと これ主萬軍のヱホバのみことばなり」イザヤ書3:14–15(文語訳)。「聽け、富める者よ、なんぢらの上に來らんとする艱難のために泣きさけべ。 汝らの財は朽ち、汝らの衣は蠧み、 汝らの金銀は錆びたり。この錆なんぢらに對ひて證をなし、かつ火のごとく汝らの肉を蝕はん。汝等この末の世に在りてなほ財を蓄へたり。 視よ、汝等がその畑を刈り入れたる勞動人に拂はざりし値は叫び、その刈りし者の呼聲は萬軍の主の耳に入れり。」ヤコブの書5:1–4(文語訳)。「されど富まんと欲する者は、誘惑と羂、また人を滅亡と沈淪とに溺らす愚にして害ある各樣の慾に陷るなり。 それ金を愛するは諸般の惡しき事の根なり、ある人々これを慕ひて信仰より迷ひ、さまざまの痛をもて自ら己を刺しとほせり。」テモテへの前の書6:9–10(文語訳)。初代教会「困窮している者から顔をそむけてはならない。むしろあなたの兄弟とすべてのものを分かち合え……」『ディダケー』4章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第7巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1886年)所収(ANF 7の英語から翻訳)。「それゆえ、土地の代わりに、各自ができる限り苦しんでいる魂を買い取り、やもめと孤児を訪ね、彼らを見過ごしてはならない。そして主から受けたあなたがたの富とすべての備えを、そのような土地と家のために費やせ。主人があなたがたを富ませたのは、あなたがたが主人のためにこれらの奉仕を行うためなのである……」『ヘルマスの牧者』たとえ1、F. Crombie訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第2巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 2の英語から翻訳)。教皇文書「当然支払われるべき賃金をだまし取ることは、天の報復の怒りに向かって叫ぶ大きな罪である。」教皇レオ13世『レールム・ノヴァールム(Rerum Novarum)』、資本と労働に関する回勅、1891年5月15日、20項(Vatican City: Libreria Editrice Vaticana)、vatican.va(英語から翻訳)。同じ項において、この回勅は「利得のために困窮者と貧窮者に圧力を加える」あらゆる試みを非難し、「他人の困窮から自分の利益を得ること」は「人間のものであれ神のものであれ、すべての法によって断罪されている」と述べている(英語から翻訳)。同上。 ↩︎

15「人を拐帶したる者は之を賣りたるも尚その手にあるも必ず殺さるべし」出エジプト記21:16(文語訳)。「イスラエルの子孫の中なるその兄弟を拐帶してこれを使ひまたはこれを賣る人あるを見ばその拐帶者を殺し然して汝らの中より惡を除くべし」申命記24:7(文語訳)。「律法を用ふる者は、律法の正しき人の爲にあらずして、不法のもの、服從せぬもの、敬虔ならぬもの、罪あるもの、潔からぬもの、妄なるもの、父を撃つもの、母を撃つもの、人を殺す者、 淫行のもの、男色を行ふもの、人を誘拐すもの、僞るもの、いつはり誓ふ者の爲、そのほか健全なる教に逆ふ凡ての事のために設けられたるを知るべし……」テモテへの前の書1:9–10(文語訳)。「地の商人かれが爲に泣き悲しまん。今より後その商品を買ふ者なければなり。 その商品は金・銀・寶石・眞珠・細布・紫色・絹・緋色および各樣の香木、また象牙のさまざまの器、價貴き木、眞鍮・鐵・蝋石などの各樣の器、 また肉桂・香料・香・香油・乳香・葡萄酒・オリブ油・麥粉・麥・牛・羊・馬・車・奴隷および人の靈魂なり。」ヨハネの黙示録18:11–13(文語訳)。「今はユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自主もなく、男も女もなし、汝らは皆キリスト・イエスに在りて一體なり。」ガラテヤ人への書3:28(文語訳)。「もはや奴隷の如くせず、奴隷に勝りて愛する兄弟の如くせん爲なりしやも知るべからず。我は殊に彼を愛す、まして汝は肉によりても主によりても、之を愛せざる可けんや。」ピレモンへの書1:16(文語訳)。「『わたしは男奴隷と女奴隷を手に入れた』。あなたは、本性が自由であり自由意志をその特質とする人間を、奴隷の身に定めている。……あなたは神の像をいくらのオボロスで値踏みしたのか。」ニュッサのグレゴリオス『コヘレトの言葉講話』4、Andrew Maguire訳、Early Church Texts(earlychurchtexts.com)(Maguireの英語から翻訳)。 ↩︎

16「汝らの中間にその男子女子をして火の中を通らしむる者あるべからずまた卜筮する者邪法を行なふ者禁厭する者魔術を使ふ者 法印を結ぶ者憑鬼する者巫覡の業をなす者死人に詢ことをする者あるべからず 凡て是等の事を爲す者はヱホバこれを憎たまふ汝の神ヱホバが彼らを汝の前より逐はらひたまひしも是等の憎むべき事のありしに因てなり」申命記18:10–12(文語訳)。「汝等憑鬼者を恃むなかれ卜筮師に問ことを爲て之に身を汚さるるなかれ我は汝らの神ヱホバなり」レビ記19:31(文語訳)。「もし人なんぢらにつげて巫女および魔術者のさえづるがごとく細語がごとき者にもとめよといはば民はおのれの神にもとむべきにあらずや いかで活者のために死者にもとむることを爲んといへ」イザヤ書8:19(文語訳)。「其は違逆は魔術の罪のごとく抗戻は虚しき物につかふる如く偶像につかふるがごとし汝ヱホバの言を棄たるによりヱホバもまた汝をすてて王たらざらしめたまふ」サムエル前書15:23(文語訳)。「また魔術を行ひし多くの者ども、その書物を持ちきたり、衆人の前にて焚きたるが、其の價を算ふれば銀五萬ほどなりき。」使徒行伝19:19(文語訳)。「それ肉の行爲はあらはなり。即ち淫行・汚穢・好色・ 偶像崇拜・呪術・怨恨・紛爭・嫉妬・憤恚・徒黨・分離・異端・ 猜忌・醉酒・宴樂などの如し。我すでに警めたるごとく、今また警む。斯かることを行ふ者は神の國を嗣ぐことなし。」ガラテヤ人への書5:19–21(文語訳)。「されど臆するもの、信ぜぬもの、憎むべきもの、人を殺すもの、淫行のもの、咒術をなすもの、偶像を拜する者および凡て僞る者は、火と硫黄との燃ゆる池にて其の報を受くべし、これ第二の死なり」ヨハネの黙示録21:8(文語訳)。「わが子よ、前兆を占う者となってはならない。それは偶像礼拝へと導くからである。まじない師にも占星術師にもなってはならない……」『ディダケー』3章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第7巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1886年)所収(ANF 7の英語から翻訳)。「祭司職または聖職者に属する者は、魔術師、まじない師、数占い師、占星術師であってはならない。また、いわゆる護符を作ってはならない。それは自分自身の魂を縛る鎖である。そしてそのようなものを身に着ける者は、教会から追放するよう命じる。」ラオディキア教会会議、第36条、Henry R. Percival訳、Philip Schaff・Henry Wace編『Nicene and Post-Nicene Fathers』第2集第14巻(New York: Christian Literature Publishing, 1900年)所収(NPNF2 14の英語から翻訳)。カテキズム「あらゆる形の占いは退けられなければならない。サタンや悪霊に頼ること、死者を呼び出すこと、あるいは未来を『明らかにする』と誤って考えられているその他の行いがそれである。星占い、占星術、手相見、前兆やくじの解釈、千里眼の現象、死者と交信すると称する者に頼ることは、いずれも、時と歴史と、ついには他の人間とを支配する力への欲望、また隠れた力を味方につけようとする願望を隠している。それらは、私たちが神にのみささげるべき誉れと尊敬と愛に満ちた畏れとに反する。」『Catechism of the Catholic Church』第2版(Vatican City: Libreria Editrice Vaticana, 1997年)、2116項(英語から翻訳)。 ↩︎

17「時にヱホバの言テシベ人エリヤに臨みて曰ふ 起て下りサマリアにあるイスラエルの王アハブに會ふべし彼はナボテの葡萄園を取んとて彼處に下りをるなり 爾彼に告て言べしヱホバ斯言ふ爾は殺し亦取たるやと又爾彼に告て言ふべしヱホバ斯言ふ犬ナボテの血を銛し處にて犬爾の身の血を銛べしと」列王紀略上21:17–19(文語訳)。「その中にある公伯等は食を撕くところの豺狼のごとくにして血をながし靈魂を滅し物を掠めとらんとす」エゼキエル書22:27(文語訳)。「我言ふヤコブの首領よイスラエルの家の侯伯よ 汝ら聽け公義は汝らの知べきことに非ずや 汝らは善を惡み惡を好み民の身より皮を剥ぎ骨より肉を剔り 我民の肉を食ひその皮を剥ぎその骨を碎きこれを切きざみて鍋に入る物のごとくし鼎の中にいるる肉のごとくす」ミカ書3:1–3(文語訳)。「地のもろもろの王はたちかまへ群伯はともに議り ヱホバとその受膏者とにさからひていふ われらその械をこぼち その繩をすてんと 天に坐するもの笑ひたまはん 主かれらを嘲りたまふべし」詩篇2:2–4(文語訳)。「それゆえ、正義が取り去られるなら、王国は大きな盗賊団以外の何であろうか。」アウグスティヌス『神の国』4.4、Marcus Dods訳、Philip Schaff編『Nicene and Post-Nicene Fathers』第1集第2巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1887年)所収(NPNF1 2の英語から翻訳)。「あなたが臨席するつもりであるなら、私はあえて犠牲をささげはしない。」ミラノのアンブロシウス書簡51.13、皇帝テオドシウス宛て、H. de Romestin訳、Philip Schaff・Henry Wace編『Nicene and Post-Nicene Fathers』第2集第10巻(New York: Christian Literature Publishing, 1896年)所収(NPNF2 10の英語から翻訳)。 ↩︎

18「使徒たちの按手によりて其の御靈を與へられしを見て、シモン金を持ち來りて言ふ、 『わが手を按くすべての人の聖靈を受くるやうに、此の權威を我にも與へよ』 ペテロ彼に言ふ『なんぢの銀は汝とともに亡ぶべし、なんぢ金をもて神の賜物を得んと思へばなり。 なんぢは此の事に關係なく干與なし、なんぢの心、神の前に正しからず。」使徒行伝8:18–21(文語訳)。「人の子よ汝イスラエルの牧者の事を預言せよ預言して彼ら牧者に言ふべし主ヱホバかく言ふ己を牧ふところのイスラエルの牧者は禍なるかな牧者は群を牧ふべき者ならずや 汝らは脂を食ひ毛を纏ひ肥たる物を屠りその群をば牧はざるなり 汝ら其弱き者を強くせずその病る者を醫さずその傷ける者を裹まず散されたる者をひきかへらず失たる者を尋ねず手荒に嚴刻く之を治む」エゼキエル書34:2–4(文語訳)。「その首領等は賄賂をとりて審判をなしその祭司等は値錢を取て教晦をなす 又その預言者等は銀子を取て占卜を爲しヱホバに倚頼みて云ふヱホバわれらと偕に在すにあらずや 然ば災禍われらに降らじと」ミカ書3:11(文語訳)。「汝らの中にある神の群羊を牧へ。止むを得ずして爲さず、神に從ひて心より爲し、利を貪るために爲さず、悦びてなし、 委ねられたる者の主とならず、群羊の模範となれ。」ペテロの前の書5:2–3(文語訳)。「それ監督は神の家司なれば、責むべき所なく、放縱ならず、輕々しく怒らず、酒を嗜まず、人を打たず、恥づべき利を取らず……」テトスへの書1:7(文語訳)。「イエス宮に入り、その内なる凡ての賣買する者を逐ひいだし、兩替する者の臺、鴿を賣る者の腰掛を倒して言ひ給ふ、 『「わが家は祈の家と稱へらるべし」と録されたるに、汝らは之を強盜の巣となす』」マタイ伝福音書21:12–13(文語訳)。「聖職者の列に加えられた多くの者が、貪欲と利得への欲に従い、『彼はその金を利息を取って貸さなかった』と言う神の聖書を忘れ、金を貸して元金の百分の一を[月ごとの利子として]求めているので、聖なる大会議は、この定めの後に、秘密の取引によってであれ、元金とその半分を要求するなどその他の方法によってであれ、あるいは汚れた利得のために何であれ他の策略を用いることによってであれ、利子を取る者が見いだされたならば、その者は聖職から罷免され、その名は名簿から抹消されるのが正当であると考える。」第1ニカイア公会議(325年)、第17条、Henry R. Percival訳、Philip Schaff・Henry Wace編『Nicene and Post-Nicene Fathers』第2集第14巻(New York: Christian Literature Publishing, 1900年)所収(NPNF2 14の英語から翻訳)。「もし主教が金銭のために叙任を行い、売ることのできない恵みを売りに出し、金銭のために主教、地方主教、長老、執事、あるいは聖職者に数えられるほかの者を叙任するならば、あるいは金銭のために管理者、法務担当者、看守、あるいはそのほか何であれ教会の役職者を、自分の汚れた利得のために任命するならば、これを企てて有罪とされた者は、自らの地位を失うものと[せよ]……」カルケドン公会議(451年)、第2条、Norman P. Tanner編『Decrees of the Ecumenical Councils』第1巻(London: Sheed & Ward; Washington, DC: Georgetown University Press, 1990年)所収、papalencyclicals.netに転載されたもの(Tannerの英語から翻訳)。(オンラインの本文は “led him” となっている。角括弧内で訂正した。) ↩︎

19「兄弟よ、我らの主イエス・キリストの名に頼りて汝らに勸む、おのおの語るところを同じうし、分爭する事なく、同じ心おなじ念にて全く一つになるべし。」コリント人への前の書1:10(文語訳)。「我かれらの爲のみならず、その言によりて我を信ずる者のためにも願ふ。 これ皆一つとならん爲なり。父よ、なんぢ我に在し、我なんぢに居るごとく、彼らも我らに居らん爲なり、是なんぢの我を遣し給ひしことを世の信ぜん爲なり。」ヨハネ伝福音書17:20–21(文語訳)。「平和の繋のうちに勉めて御靈の賜ふ一致を守れ。 體は一つ、御靈は一つなり。汝らが召にかかはる一つ望をもて召されたるが如し。 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、 凡ての者の父なる神は一つなり。神は凡てのものの上に在し、凡てのものを貫き、凡てのものの内に在したまふ。」エペソ人への書4:3–6(文語訳)。「今もなほ食ふこと能はず、今もなほ肉に屬する者なればなり。汝らの中に嫉妬と紛爭とあるは、これ肉に屬する者にして世の人の如くに歩むならずや。」コリント人への前の書3:3(文語訳)。「なぜあなたがたの間に争い、騒乱、分裂、分派、戦いがあるのか。……なぜ私たちはキリストの肢体を分け、引き裂き、自分自身のからだに対して争いを起こし、『私たちは互いに肢体である』ことを忘れるほどの狂気に達してしまったのか。」ローマのクレメンス『コリント人への第一の手紙』46章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。「教会を母としない者は、もはや神を父とすることはできない。」カルタゴのキプリアヌス『教会の一致について』6、Ernest Wallis訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第5巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1886年)所収(ANF 5の英語から翻訳)。「……主イエス・キリストの衣はまったく分けられも裂かれもせず、全き衣として受け取られ、キリストの衣についてくじを引く者たちによって、損なわれず分けられない衣として所有される……」カルタゴのキプリアヌス『教会の一致について』7、Ernest Wallis訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第5巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1886年)所収(ANF 5の英語から翻訳)。 ↩︎

20「されど凡そ人の前にて我を言ひあらはす者を、我もまた天にいます我が父の前にて言ひ顯さん。 されど人の前にて我を否む者を、我もまた天にいます我が父の前にて否まん。」マタイ伝福音書10:32–33(文語訳)。「そのとき人々なんぢらを患難に付し、また殺さん、汝等わが名の爲に、もろもろの國人に憎まれん。 その時おほくの人つまづき、且たがひに付し、互に憎まん。」マタイ伝福音書24:9–10(文語訳)。「ペテロ言ふ『人よ、我なんぢの言ふことを知らず』なほ言ひ終へぬに、やがて鷄鳴きぬ。 主、振反りてペテロに目をとめ給ふ。ここにペテロ、主の『今日にはとり鳴く前に、なんぢ三度われを否まん』と言ひ給ひし御言を憶ひいだし、 外に出でて甚く泣けり。」ルカ伝福音書22:60–62(文語訳)。「我に屬ける義人は、信仰によりて活くべし。:もし退かば、わが心これを喜ばじ』 然れど我らは退きて滅亡に至る者にあらず、靈魂を得るに至る信仰を保つ者なり。」ヘブル人への書10:38–39(文語訳)。「われ汝の住むところを知る、彼處にはサタンの座位あり、汝わが名を保ち、わが忠實なる證人アンテパスが、汝等のうち即ちサタンの住む所にて殺されし時も、なほ我を信ずる信仰を棄てざりき。」ヨハネの黙示録2:13(文語訳)。「脅かす敵の最初の言葉で、たちまち兄弟たちの大多数が信仰を裏切り、迫害の襲撃によってではなく、自ら進んで堕落することによって自分自身を投げ倒した。」カルタゴのキプリアヌス『背教者について』7、Ernest Wallis訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第5巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1886年)所収(ANF 5の英語から翻訳)。「まことに彼らは、上って行く前に捕らえられるのを待たず、否む前に尋問されるのを待たなかった。彼らは自ら進んで広場へと走って行った……」カルタゴのキプリアヌス『背教者について』8、Ernest Wallis訳、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第5巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1886年)所収(ANF 5の英語から翻訳)。ローマ総督の記録(キリスト教以外の古代資料)「キリスト者であること、あるいはかつてキリスト者であったことを否定した者たちは、私の口述した言葉で神々に呼びかけ、この目的のために神々の像とともに運ばせておいたあなたの像に香とぶどう酒とをもって祈りをささげ、さらにキリストを呪った――真にキリスト者である者は、これらのことのどれ一つとして強いられてもすることができないと言われている……」小プリニウス『書簡集』10.96、皇帝トラヤヌス宛て(紀元112年頃)、James J. O’Donnellが公開した英訳、Georgetown University, faculty.georgetown.edu/jod/texts/pliny.html(同ページに訳者名の記載なし)(O’Donnellの英語から翻訳)。 ↩︎

21「誰にても天國の言をききて悟らぬときは、惡しき者きたりて、其の心に播かれたるものを奪ふ。路の傍らに播かれしとは斯かる人なり。」マタイ伝福音書13:19(文語訳)。「御言の播かれて路の傍らにありとは、かかる人をいふ、即ち聞くとき、直ちにサタン來りて、その播かれたる御言を奪ふなり。」マルコ伝福音書4:15(文語訳)。「もし我らの福音おほはれ居らば、亡ぶる者に覆はれをるなり。 この世の神は此等の不信者の心を暗まして、神の像なるキリストの榮光の福音の光を照さざらしめたり。」コリント人への後の書4:3–4(文語訳)。「(我パウロは一度ならず再度までも)なんぢらに到らんと爲たれど、サタンに妨げられたり。」テサロニケ人への前の書2:18(文語訳)。「かの魔術者エルマ(この名を釋けば魔術者)二人に敵對して總督を信仰の道より離れしめんとせり。」使徒行伝13:8(文語訳)。「彼すなはち我に言けるはダニエルよ懼るる勿れ汝が心をこめて悟らんとし汝の神の前に身をなやませるその初の日よりして汝の言はすでに聽れたれば我汝の言によりて來れり 然るにペルシヤの國の君二十一日の間わが前に立塞がりけるが長たる君の一なるミカエル來りて我を助けたれば我勝留りてペルシヤの王等の傍にをる 我は末の日に汝の民に臨まんとするところの事を汝に暁らせんとて來れりまた後の日に關はる所の異象ありと」ダニエル書10:12–14(文語訳)。 ↩︎

22ここで言う「教会」とは、組織された教会だけでなく、個々にキリストのからだの一部である個々の信者をも意味する。「體は一つにして肢は多し、體の肢は多くとも一つの體なるが如く、キリストも亦然り。 我らはユダヤ人・ギリシヤ人・奴隷・自主の別なく、一體とならん爲に、みな一つ御靈にてバプテスマを受けたり。而してみな一つ御靈を飮めり。」コリント人への前の書12:12–13(文語訳)。「乃ち汝らはキリストの體にして各自その肢なり。」コリント人への前の書12:27(文語訳)。「我らも多くあれど、キリストに在りて一つ體にして、各人たがひに肢たるなり。」ロマ人への書12:5(文語訳)。「萬の物をその足の下に服はせ、彼を萬の物の上に首として教會に與へ給へり。 この教會は彼の體にして、萬の物をもて萬の物に滿し給ふ者の滿つる所なり。」エペソ人への書1:22–23(文語訳)。「而して彼はその體なる教會の首なり、彼は始にして死人の中より最先に生れ給ひし者なり。これ凡ての事に就きて長とならん爲なり。」コロサイ人への書1:18(文語訳)。「なんぢら彼にきたり、活ける石のごとく建てられて靈の家となれ。これ潔き祭司となり、イエス・キリストに由りて神に喜ばるる靈の犧牲を献げん爲なり。」ペテロの前の書2:5(文語訳)。初代教会「主教が現れるところには、どこでも会衆[の民]もまたいなければならない。イエス・キリストがおられるところには、どこでも公同の教会があるのと同じように。」アンティオキアのイグナティオス『スミルナ人への手紙』8章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。 ↩︎

23「なんぢ若この時にあたりて黙して言ずば他の處よりして助援と拯救ユダヤ人に興らんされど汝どなんぢの父の家は亡ぶべし 汝が后の位を得たるは此のごとき時のためなりしやも知るべからず」エステル書4:14(文語訳)。「イツサカルの子孫たる者の中より善く時勢に通じイスラエルの爲べきことを知る者……」歴代志略上12:32(文語訳)。「……なんぢら空の氣色を見分くることを知りて、時の徴を見分くること能はぬか。」マタイ伝福音書16:3(文語訳)。「大によばはりて聲ををしむなかれ 汝のこゑをラッパのごとくあげ わが民にその愆をつげヤコブの家にその罪をつげしめせ」イザヤ書58:1(文語訳)。「人の子よ我なんぢを立てイスラエルの家の爲に守望者となす汝わが口より言を聽き我にかはりてこれを警むべし」エゼキエル書3:17(文語訳)。「然れども守望者劍の臨むを見てラッパを吹ず民警戒をうけざるあらんに劍のぞみて其中の一人を失はば其人は己の罪に死るなれど我その血を守望者の手に討問めん」エゼキエル書33:6(文語訳)。 ↩︎

24諸教会に書き送れというキリストの命令「……なんぢの見る所のことを書に録して、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤに在る七つの教會に贈れ」ヨハネの黙示録1:11(文語訳)。これは、一つの地域にある特定の教会に、一つずつ名を挙げて文書を送るよう、キリストご自身が命じておられるという点についての最も有力な引用である。キリストご自身が、すべての伝達が普遍的教会全体に向けられる必要はなく、ある特定の時に、ある特定の場所にある、ある特定の教会のために、ある特別な使信が必要であることを示しておられる。「耳ある者は御靈の諸教會に言ひ給ふことを聽くべし……」ヨハネの黙示録2:7(文語訳)。この聖書の箇所は、一つの教会に宛てられた手紙が、ある問題においては、なおもすべての教会に語りかけていることを示している。先に引用したヨハネの黙示録1:11は、ある使信が、特定の時に特定の場所にある特定の教会に向けられていることを示している。この引用は、ヨハネの黙示録1:11の命令が効力を持っていても、残りの教会は、ヨハネの黙示録1:11の使信が向けられた特定の教会への教えを通して、なお信仰において教えられうるという点を証ししている。「エペソに在る教會の使に書きおくれ……」ヨハネの黙示録2:1(文語訳)。これは、キリストが一つの教会に語りかけておられる箇所である。キリストは、聖職にある者を含め、私たちすべてが従うべき究極の模範を示しておられる。それゆえ、ある文書はある特定の一つの教会に宛てられる。地域ごとの諸教会に宛てた使徒の手紙「之に托したる書にいふ『使徒および長老たる兄弟ら、アンテオケ、シリヤ、キリキヤに在る異邦人の兄弟たちの平安を祈る……」使徒行伝15:23(文語訳)。これは、エルサレム会議が定められた地域に宛てて手紙を送ったという事実を証しするものであり、主教はここでこの慣行を採用している。「かくて町々を經ゆきて、エルサレムに居る使徒・長老たちの定めし規を守らせんとて、之を人々に授けたり。 ここに諸教會はその信仰を堅うせられ、人員日毎にいや増せり。」使徒行伝16:4–5(文語訳)。使徒行伝16:4–5は、使徒行伝15:23の続きである。使徒行伝15:23は、エルサレム会議が定められた地域の諸教会に宛てて手紙を書いているところを示している。使徒行伝16:4と5は、同じ決定がその後、町から町へと運ばれ、諸教会に伝えられたことを示している。そして、その結果として諸教会が信仰においていっそう堅くされ、数を増したことを記録している。エルサレム会議が出した定めは、エルサレムにとどまらなかった。それらは、伝えられるべき諸教会へと実際に運ばれて行った。その伝達を受けた諸教会は養われ、信仰において堅くされ、数を増した。これこそ、十の国の諸教会に宛てた地域ごとの文書の目的である。要するに、これら二つの節は、地域に宛てた手紙が、集まった諸教会に読み聞かされたとき、効果を持ったことを示している。「この書を汝らの中にて讀みたらば、之をラオデキヤ人の教會にも讀ませ、汝等はまたラオデキヤより來る書を讀め。」コロサイ人への書4:16(文語訳)。この聖書の箇所は、一つの教会に宛てられた使徒の手紙が、その後、近隣の諸教会に回覧されたことを示している。「主によりて汝らに命ず、この書を凡ての兄弟に讀み聞かせよ。」テサロニケ人への前の書5:27(文語訳)。この引用は、ある特定の使信が、特定の場所にある特定の教会に伝えられる必要がありながら、同時に、十の国じゅうに広がる教会の残りの部分にも当てはまり、宛てられた教会ほど緊急ではないかもしれないにせよ、等しく重要でありうるという点を示している。離散している諸教会への手紙「イエス・キリストの使徒ペテロ、書をポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ピテニヤに散りて宿れる者……」ペテロの前の書1:1(文語訳)。この聖書の箇所は、すべての信者が教会の礼拝に出席しているわけではなく、ある者たちは自分の住む地域社会の至る所に散らされているという点を示している。これらの人々は、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストを信じる者として、教会の礼拝に出ている者たちとまったく同じようにキリストのからだの一部である。そしてこれこそ、主教が「離散している諸教会」に宛てて伝達を行う主な理由である。聖霊はそれぞれの信者のうちにおられる。そうでないと言う者は聖霊を冒瀆している。「神および主イエス・キリストの僕ヤコブ、散り居る十二の族の平安を祈る。」ヤコブの書1:1(文語訳)。これは、離散して全世界に広がる普遍的教会に宛てた呼びかけの一例である。それは教会全体への普遍的な使信である。それは十二の部族に言及しているが、天国の学者においては、伝達は十の国に宛てられている。それでもなお、それは世界中の諸教会に呼びかけることの先例となっている。一つの地域の諸教会に特に呼びかけることの先例は、前述の注によってすでに確立されている。初代教会――教会から教会に宛てた手紙「ローマに寄留する神の教会から、コリントに寄留する神の教会へ。私たちの主イエス・キリストによって、神の御心により召され聖とされた人々へ。全能の神からイエス・キリストを通して、恵みと平和とがあなたがたに豊かに増し加えられるように。」ローマのクレメンス『コリント人への第一の手紙』あいさつ、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。「スミルナに寄留する神の教会から、フィロメリオンに寄留する神の教会へ、またあらゆる所にある聖なる公同の教会のすべての会衆へ。父なる神と私たちの主イエス・キリストから、あわれみと平和と愛とが豊かに増し加えられるように。」『ポリュカルポスの殉教』あいさつ、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。 ↩︎

25「また汝等わが故によりて、司たち王たちの前に曳かれん。これは彼らと異邦人とに證をなさん爲なり。」マタイ伝福音書10:18(文語訳)。「ナタン、ダビデにいひけるは汝は其人なり……」サムエル後書12:7(文語訳)。「ヨハネ、ヘロデに『その兄弟の妻を納るるは宣しからず』と言へるに因る。」マルコ伝福音書6:18(文語訳)。「アハブ、エリヤを見し時アハブ、エリヤに言けるは汝イスラエルを惱ます者此にをるか 彼答へけるは我はイスラエルを惱さず但汝と汝の父の家之を惱すなり即ち汝等はヱホバの命令を棄て且汝はバアルに從ひたり」列王紀略上18:17–18(文語訳)。「然ば王よ吾諌を容れ義をおこなひて罪を離れ貧者を憐みて惡を離れよ然らば汝の平安あるひは長く続かんと」ダニエル書4:27(文語訳)。「みよ我けふ汝を萬民のうへと萬國のうへにたて汝をして或は抜き或は毀ち或は滅し或は覆し或は建て或は植しめん」エレミヤ記1:10(文語訳)。「パウロが正義と節制と來らんとする審判とにつきて論じたる時、ペリクス懼れて答ふ『今は去れ、よき機を得てまた招かん』」使徒行伝24:25(文語訳)。「アグリッパ、パウロに言ふ『なんぢ説くこと僅にして我をキリステアンたらしめんとするか』 パウロ言ふ『説くことの僅なるにもせよ、多きにもせよ、神に願ふは、啻に汝のみならず、凡て今日われに聽ける者の、この縲絏なくして我がごとき者とならんことなり』」使徒行伝26:28–29(文語訳)。「ペテロ及び他の使徒たち答へて言ふ『人に從はんよりは神に從ふべきなり。」使徒行伝5:29(文語訳)。「あなたが臨席するつもりであるなら、私はあえて犠牲をささげはしない。」ミラノのアンブロシウス書簡51.13、皇帝テオドシウス宛て、H. de Romestin訳、Philip Schaff・Henry Wace編『Nicene and Post-Nicene Fathers』第2集第10巻(New York: Christian Literature Publishing, 1896年)所収(NPNF2 10の英語から翻訳)。初代教会「皇帝ティトゥス・アエリウス・アドリアヌス・アントニヌス・ピウス・アウグストゥス・カエサルへ、またその子である哲学者ウェリッシムスへ、またカエサルの実子にしてピウスの養子であり、学問を愛する哲学者ルキウスへ、また神聖なる元老院とローマ全国民とへ。私、パレスチナのフラウィア・ネアポリスの出であるプリスクスの子、バッキウスの孫ユスティノスは、不当に憎まれ、理不尽に虐げられているあらゆる民族の人々のために、この言葉と嘆願とをささげる。私自身もその一人である。」殉教者ユスティノス『第一弁明』1章、Alexander Roberts・James Donaldson編『The Ante-Nicene Fathers』第1巻(Buffalo, NY: Christian Literature Publishing, 1885年)所収(ANF 1の英語から翻訳)。 ↩︎

26「ヱホバわれに答へて言たまはく 此黙示を書しるして之を板の上に明白に鐫つけ奔りながらも之を讀むべからしめよ」ハバクク書2:2(文語訳)。「我も凡ての事を最初より詳細に推し尋ねたれば……」ルカ伝福音書1:3(文語訳)。「凡ての事、宣しきに適ひ、かつ秩序を守りて行へ。」コリント人への前の書14:40(文語訳)。 ↩︎

27「何の惡にもあれ凡てその犯すところの罪は只一人の證人によりて定むべからず二人の證人の口によりまたは三人の證人の口によりてその事を定むべし」申命記19:15(文語訳)。「今われ三度なんぢらに到らんとす、二三の證人の口によりて凡てのこと慥めらるべし。」コリント人への後の書13:1(文語訳)。「もし聽かずば、一人・二人を伴ひ往け、これ二三の證人の口に由りて、凡ての事の慥められん爲なり。」マタイ伝福音書18:16(文語訳)。「此處の人々はテサロニケに居る人よりも善良にして、心より御言をうけ、この事正しく然るか然らぬか、日々聖書をしらぶ。」使徒行伝17:11(文語訳)。「凡てのこと試みて善きものを守り……」テサロニケ人への前の書5:21(文語訳)。 ↩︎

本ページの日本語の聖句は、すべて文語訳聖書(旧約:明治元訳、1887年/新約:大正改訳、1917年、日本聖書協会)から引用しています。いずれもパブリックドメインです。本文:ウィキソース。聖句は抜粋して引用しており、省略箇所は「……」で示しています。